平成23(2011)年10月1日

 横浜市の認可を受け児童家庭支援センターみなと開所

 開所に至るまでの沿革には、「横浜一般病院」「社会福祉法人聖母会」「社会福祉法人キリスト教児童福祉会」が関わっています。
 カトリック系の聖母会が、ルーテル(プロテスタント)系のキリスト教児童福祉会に無償で財産移管しましたが、これは、世界の歴史上、特別なことです。

横浜一般病院(THE YOKOHAMA GENERAL HOSPITAL)沿革

慶応3(1967)年
 「THE YOKOHAMA GENERAL HOSPITAL」を欧米人を中核とする委員会によって、横浜市中区山手町に設立。昭和17(1942)年6月5日
 GENERAL Hは敵産管理法施行令第3条第4項に基づき大蔵大臣より敵産に指定された。(敵産管理人三菱信託株式会社)
昭和18(1943)年6月
 GENERAL H(以下横浜一般病院と記載)病院委員会は1月21日の会議で改組に関する日本帝国政府の計画に原則的に同意したと、日本側(外務省)に通報した。新しく構成された委員会の委員は日本人6名、外国人4名
昭和18(1943)年9月15日
 財団法人横浜一般病院設立に関し、厚生大臣宛申請書提出
昭和19(1944)年1月20日
「財団法人 横浜一般病院」設立認可、大蔵省は敵産として接収した国有財産たる病院財産を本財団法人に無償譲渡、2月22日登記
昭和19(1944)年3月
 山手地区外人立ち入り禁止海軍の要請により病院を横須賀海軍病院に賃貸、代わりに横浜関内にある関東病院を買収、移転(3月23日)。診療科は内科、外科、産婦人科、X線科、開業準備期間をおいて診療開始は7月1日
昭和20(1945)年5月29日
 横浜大空襲病院周辺は焼夷弾攻撃により、見渡す限り焦土と化したが病院は職員の奮闘により、一部の病室を除き焼失をまぬかれた。わずかに残った建物はニューグランドホテル、横浜正金銀行、県庁、横浜一般病院ぐらいであった。
昭和20(1945)年8月15日
 太平洋戦争終了、28日連合軍進駐、30日マッカーサーホテルニューグランド入り横浜一般病院山手病舎(分院)は進駐軍に接収され、病院は欧米人の運営に復帰。
昭和21(1946)年7月1日
 山手地区の病院は寄付行為変更、THE YOKOHAMA GENERAL HOSPITALと元通りの名称に戻る。なおこの病院は昭和25年(1950)The Bluff Hospitalと改称した。

聖母会沿革

 聖母愛児園の始まりは、一般病院(中区山手町82)の玄関先に子どもが放置されていた昭和21年4月です。その後、駅や道路に置き去りにされている乳児を警察がシスター達のところへ連れてくるようになり、聖母病院からも同じような乳児が届けられました。シスター達は、一般病院(中区山手町82)内で、子どもたちの養育を始めました。
 昭和20年代30年代は、ドイツ・カナダ・ハンガリア・ポーランド・イングランド等のシスター達も活躍していました。
 昭和21(1946)年8月までに、子どもたちを22名預かり、翌年8月までには136名受け入れるなど、献身的に働きました。昭和20年代は戦後の混乱期であり、生後間もない子どもたちが放置されており、その上、発疹チフス、痘そう・コレラ等の伝染病が蔓延していました。預かっても疾病や栄養失調等で死亡に至るケースが多く、献身的に働く職員たちの心中は、穏やかではなかったことでしょう。
 また、昭和25(1950)年から昭和35(1960)年までは、アメリカのご家庭との養子縁組があり250組程の縁組みが成立していました。
 以下、沿革の概略を記します。
昭和4(1929)年3月27日
 財団法人大和奉仕会 法人成立
昭和10(1935)年
 1867年に欧米人によって設立された横浜一般病院の院内管理と看護部門の責務を引き受けた。(聖母会前身大和奉仕会)
昭和21(1946)年4月
 終戦後の混乱の中、病院の玄関先に子どもが置き捨てられていた。横浜市中区山手町82番地、横浜一般病院の一角を利用して、収容、保護に当たったのが始まりとなった。
創立年月日:
 昭和21(1946)年5月31日 ルルドのマリア様のご保護の許におく。
創立理由 :
 駅や道路に捨ててある乳児を警察がシスターのところへ連れてくるようになった。又、聖母病院からも同じような乳児が届けられる。シスター達は一般病院内で世話を始めたが、2歳まで預かり、その後カトリックの施設(サレジオ会やパウロ会)に移すつもりであった。
昭和21(1946)年8月15日
 5月から22名預かり、12名は他のカトリック施設に移る。現在10名在籍
昭和21(1946)年9月
 神奈川県当局の支援により、横浜市中区山手町68番地に乳児院を新設、名称を聖母愛児園として独立。初代園長は、大和奉仕会々員ルゼンヌ・アンナ・マリーが就任。
昭和22(1947)年8月15日
 この1年間に136名受け入れる。40名死亡、17名は他の施設に移る。現在79名在籍
昭和23(1948)年8月15日
 この1年間に243名受け入れる。50名死亡、32名は本会の他の施設に移る。現在161名在籍
昭和24(1949)年8月15日
 この1年間に233名受け入れる。17名死亡、51名は他の施設に移る。現在165名在籍
昭和25(1950)年4月
 収容児の成長、増加に伴い、養護施設の認可を受ける。
昭和25(1950)年8月15日
 この1年間に215名受け入れる。8名死亡、10名北広島の本会の施設に移り32名は他の施設または養子として引き取られる。現在165名在籍(3歳以下120名、3歳以上45名)
昭和26(1951)年8月15日
 この1年間に235名受け入れる。7名死亡、22名カトリックの家庭に引き取られる。現在206名在籍(3歳以下151名、3歳以上55名)
昭和27(1952)年8月15日
 この1年間に185名受け入れる。2名死亡、31名アメリカのカトリックの家庭に引き取られる。現在152名在籍
昭和28(1953)年
 財団法人大和奉仕会が社会福祉法人聖母会に組織変更認可
昭和28(1953)年8月15日
 この1年間に171名受け入れる。2名死亡、33名アメリカの家庭に引き取られる。現在136名在籍
昭和29(1954)年8月15日
 この1年間に195名受け入れる。2名死亡、42名アメリカの家庭に引き取られる。14名家族の許に帰る。現在137名在籍
昭和30(1955)年8月15日
 この1年間233名受け入れる。55名カトリック家庭へ引き取られ、41名は少年の町(Boys Town)へ受け入れられ、19名は母親の許へ帰る。2名死亡現在116名在籍
昭和31(1956)年8月15日
 この1年間に196名受け入れる。2名死亡、49名アメリカの家庭に引き取られる。28名母親の許へ帰る。現在117名在籍
 Baby-Home(現聖母愛児園)建築着工。
昭和32(1957)年3月
 建築竣工
昭和32(1957)年8月15日
 現在120名在籍。アメリカに引き取られた子どもの数は不明*アメリカへの養子縁組は昭和35年まで続いた。
昭和40(1965)年8月
 鉄筋コンクリート3階建て、幼児棟、職員宿舎増築着工。
昭和41(1966)年5月
 建築竣工
昭和52(1977)年3月
 幼児減少のため、乳児院閉鎖。改築工事を行い、旧館3階を職員宿舎に新館2階を児童棟にする。
平成 8(1996)年
 耐震診断実施、耐震補強より建て直しが最善との結果


平成13(2001)年
 分園型自活訓練事業開始(本郷ホーム定員6名)
平成14(2002)年10月
 分園型自活訓練事業から転換し、地域小規模児童養護施設認可
平成17(2005)年10月
 聖母会からキリスト教児童福祉会へ法人移管

キリスト教児童福祉会沿革

昭和21(1946)年1月
 宣教師モード・パウラス女史は、終戦後荒廃した熊本市を彷徨する傷心の子供の数が多いのを見て、早急に収容施設を増設する必要を認めた。
昭和22(1947)年6月
 幾多の紆余曲折を経て、旧陸軍演習場用地払い下げの申請が受理され資金を米国リッチモンド市に本部を置くC・C・F(Christian Childrens Fund.Inc) に得て、茫々たる草原2万6千余坪の開墾を始め収容ホーム建設に着手。


昭和23(1948)年4月
 旧陸軍の倉庫1棟移築して、収容ホーム第1号を建て、開園。


昭和24(1949)年8月
 児童福祉法による「養護施設慈愛村」認可(熊本県知事)
昭和27(1952)年6月
 「慈愛村」より「広安愛児園」に改名。
昭和28(1953)年12月
 「社会福祉法人基督教児童福祉会広安愛児園」認可(厚生大臣)
昭和45(1970)年4月
 理事会予算審議建物全面改善計画を立てる。
昭和47(1972)年9月
 基督教児童福祉会(米国本部)より広安愛児園への土地・建物の所有権移転登記完了。
平成 2(1990)年10月
 全面改築工事起工式。
平成3(1991)年7月
 全面改築工事完了。児童新小舎へ引っ越し。


平成13(2001)年4月
 情緒障害児短期治療施設こどもL.E.C.センター開設


平成13(2001)年8月
 法人名称を社会福祉法人キリスト教児童福祉会へ変更
平成17(2005)年10月
 社会福祉法人聖母会より児童養護施設聖母愛児園を引き継ぐ
平成19(2007)年11月
 聖母愛児園改築工事開始。
平成22(2010)年8月6日
 改築工事竣工
平成22(2010)年9月1日
 本園定員70名から90名へ


平成23(2011)年10月1日
 横浜市の認可を受け児童家庭支援センター みなと開所
 以上の経過を経て現在に至る。

キリスト教児童福祉会の歴史

1.日本福音ルーテル教会と社会福祉事業

 日本福音ルーテル教会が、日本において宣教を開始したのは、1893年(明治26年)佐賀においてである。アメリカ南部一致ルーテル教会外国修道局より派遣された二人の宣教師シエラー、ピーリー、ならびに一人の日本語教師兼伝道師山内量平氏夫妻によって最初の礼拝が守られたことをもって始まる。宣教25年の後、日本福音ルーテル教会に社会事業への取り組みが「慈善事業経営奨励の件」として明らかにされたのは1918年(大正7年)、くしくも同じ佐賀教会において開催された年会においてである。当時、佐賀教会宣教師婦人アンナ・ネルセンは門司市滞在中に救った乳児を含む三人の子どもを宣教師宅に保護していた。
 翌1919年(大正8年)の福岡で開かれた宣教師年会では、このネルソン婦人の提案により「孤児、賎業婦の救済と養老事業を開始するの件」(「コロニー・オブ・メルシー」社会事業施設を建設すること」)を決議し、この事業にあたる委員を選び、設立委員長にネルセン婦人を選出した。他の委員は、管財委員長としてミラー宣教師、後日この事業の責任者となる新任の宣教師モード・パウラス女史が選ばれた。
 さっそく、委員会は熊本市新屋敷町の宣教師館を借用し、野中みさ婦人が主任となり、佐賀で保護していた子どもたちを移し、孤児救済事業に着手した。こうして、日本福音ルーテル教会における初めての組織的社会事業は開始された。1920年(大正9年)、熊本教会での年会においては、「社会慈善事業創始の件」が決議されたこの事業開始は特別会計とし、一般伝道上差しつかえない範囲で経営することとし、設立委員会の希望が反映され、熊本市近郊に適当な土地を購入し、事業の本部をそこに置くことを確認した。こうして社会事業施設の建設が決まり、ネルセン婦人に代って、モード・パウラス女史が設立委員長となった。

2.創立者モード・パウラス女史

 日本福音ルーテル教会において、初めて組織的な社会事業を開始し、慈愛園を設立した。1889年(明治22年)、アメリカ合衆国ノースカロライナ州バーバで生まれ、小学生の時、既に日本の伝道師となる決心をしている。レイノア・ライン大学を卒業してハイスクールの教師となり、宣教師となるためニューヨーク聖書神学校、コーネル大学伝道学校で学び、1918年(大正7年)、ノースカロライナ州サウスベリの聖ヨハネ教会で外国伝道局宣教師の任命を受ける.同年9月来日、パウラス女史29歳の時である。

3.コロニー・オブ・メルシー(慈愛園の創立)

 熊本市新屋敷町で開催された孤児救済事業で、最初に保護された子どもはネルセン夫人が、大正7年に門司市のバック宣教師宅滞在中に救った子どもたちであり、久留米、佐賀とネルセン夫人・パウラス女史に護られて熊本に来たものある。したがって、日本福音ルーテル教会の社会福祉事業は、この門司での子ども救済から始まるといわれる。  熊本での事業が開始されてから、設立委員会は恒久的な施設を建てる土地をさがし始める。関係宣教師には、教会の社会福祉事業は伝道地のすべての仕事である。という一致した意識が最初から有り宣教師達は、アメリカのそれぞれの母教会で土地を買うための寄付募集を開始した。サウスカロライナ、バージニアなどの教会からの献金が200ドルになり、1921年(大正10年)、飽託郡健軍村神水(現在の熊本市神水)に2万3千平方メートル(約6千坪)の土地を購入した。1922年(大正11年)、5千ドルの献金によって、幼児部・婦人部・老人部の施設が建てられた。1923年(大正12年)4月7日、慈愛園献堂式が挙行され、今の慈愛園子供ホーム・慈愛園老人ホームが発足、モード・パウラス女史が初代園長となった。コロニー・オブ・メルシーを「慈愛園」と命名したのはJ第五高等学校英語科主任教授から初代九州学院長となった遠山参良氏であった。これ以後、慈愛園は第二次世界大戦まで、パウラス女史を中心に日本の古い因習と社会事業に対する無理解の中にあって、キリストの愛の応答と実践をとおして日本の社会福祉事業の先駆的、啓蒙的役割を果たしていく。戦後は、パウラス女史の帰任と共に社会福祉事業総合施設として発展を遂げていく。

4.基督教児童福祉会(CCF)

 CCFは、「中華児童福利会」(China Childrens Fund頭文字をとってCCFと称する。)として、1938年発足した。その主たる目的は、日中戦争の犠牲者である中国の子どもたちを救済することであった。牧師であり、長年、難民救済事業、募金活動に携わってきたカルビット・クラーク博士、ヘレニ・クラーク婦人が発起人として、アメリカ・バージニア州リッチモンドにおいて献身的に募金活動を展開する。その規模は、11年後の1949年には、北京、天津、上海、広州その他の都市に45の孤児院を経営し、5113人の子どもの生活が、それを同数ないしそれ以上の数のアメリカ人スポンサー会員献金によって支えられるようになっていた。
 1948年(昭和23年)、CCFは、中国大陸における国民党より共産党への政権の交替に伴い、中国本土各地におけるCCF事業をすべて放棄する旨決定し、上海のCCF海外事業部本部事務所を香港に移した。1951年(昭和26年)、CCF理事会は、アメリカ国民の善意を全世界の子どもたちに拡げていくことを確認し、国際的児童福祉援助団体として、名称を「基督教児童福祉会」(Cristian Childrens Fund)と改称した。1966年(昭和41年)末の資料によると、援助数は、施設援助児童数2500名、加盟施設児童援助数3900名、居宅援助児童数27520名、保育所援助児童数970名、総計70020名を援助するに至っている。

5.CCFと日本のキリスト教養護施設

 日本におけるCCFの援助対象施設は、当初、キリスト教養護施設に限定されていて、終戦直後から連絡がとられつつあった。まず、慈愛園創立者モード・パウラス女史は、1947年(昭和22年)、クラーク博士と資金援助の折衝に入っており(広安愛児園設立の発端で後述)、東京育成園とは、GHQ東京軍政府福祉課を通して連格をとり、愛隣団養護部(後のバット博士記念ホーム)とは、ララ救援物資中央委員会の中心人物G・E・バット博士などの手を通して連絡をとりつつ、昭和23年ころから援助を始めている。(注・ララLARA・アジア救済連盟の略称。Lisensed Agency for Relief of Asia.1946年、アジアの生活困窮者援助救済の目的で結成されたアメリカの民間奉仕団体の連合組織である。)
 この様な間接的な接触を通してCCF本部は、当時、香港にあって海外総主事をしていたカナダ人宣教師ミルス博士を日本に派遣した。ミルス博士は、バット博士の協力で日本でのキリスト教関係養護施設の計画的援助事業のための組織準備委員会、1952年(昭和27年)CCF東京事務所開設10月日本における基督教児童福祉会の法人が認可され、CCFの援助活動は、人的、組織的にも充実し発展していく。
 CCFの具体的な援助の仕組みは、キリストの愛にもとづいたアメリカ及びカナダの支援者(スポンサー)が月々定まった金額を送って、CCFの組織(事務所)を通して外国の施設児童の養育を援助することである。そのため、一人の施設児童に対して必ず一人の支援者が割り当てられ、この様な組織によって支援者と施設児童、さらには、子どもの所属する施設との間に温かい血の通いあう関係ができる。スポンサーと子どもは、愛による手紙の交換をおこなうことにより、経済的援助にとどまらず、精神的里親の役目を果たすという独特な援助活動である。
 1951年(昭和26年)、援助施設19、施設児童数1332名、援助金総額6,740,917円、援助ピーク時の1970年(昭和45年)には、援助施設93、援助児童数5600名、援助総額は214,017,137円に達している。
 しかし、1970年・(昭和45年)、CCFアメリカ本部理事会は、戦後の復興なったヨーロッパ諸国及びアジアにおける日本への援助プランを計画的に終結し、より一層援助を必要としている地域・諸国にその援助の矛先を向けていくという方策を決定する。その計画により、日本の東京地域事務所は、1974年(昭和49年)をもって、戦後昭和23年以降、あしかけ20年続いた日本へのCCF援助の窓口機能を終了した。同時に、日本のCCFは援助を受ける立場から、援助を手伝う側に脱皮をはかることとなった。アメリカのCCF発足のきっかけが、日本と中国の戦争儀牲者である中国の戦争の傷を受けた子どもたちの救済のためであったことを、わたし達は戦争当事国の国民として、記憶に留めておくべきであろう。
 CCFは、日本における子どもたちやキリスト教児童福祉関係者に、「国境を越えた愛の実践」の種を蒔いてくれた。その人間愛の実践を身をもって体験した日本のCCFは、新しく出発することとなった。援助を受ける立場から、援助を手伝う立場へ、日本のキリスト教会の愛は国境を越えてフィリピンの子どもたちへと注がれることとなる。この様にして1975年(昭和50年)、日本のCCF、基督教児童福祉会は精神里親部を創設した。
 参考までに、現在のCCF社会福祉法人基督教児童福祉会は、二つの事業体からなっている。一つは国際精神里親部(Christian Child Welfare Association 頭文字をとってCCWA)であり、他の一つは児童養護部でバット博士記念ホームの経営である。バット博士記念ホームの前身は、カナダ合同教会のセツルメント、愛隣団の育児部である。愛隣団は、元来セツルメントであったが、戦後の引揚げ孤児増大という社会情勢にかんがみ、育児部・養護施設を新設したものである。この愛隣団育児部とCCFを結び付けた人物が、G・E・バット博士である。愛隣団では、セツルメントの保育事業・クラブ事業の関係で、育児部の子どもたちは2階と3楷の生活であった。博士は、CCFのミルス氏とともに育児部の子供たちに土地を与えたいと願い、新しいホームの建設を約束していたという。しかしその博士は、1952年(昭和27年)、突如逝去される。バット博士は、ララ救援物資の仕事のために、その生命を縮めたといわれる。CCFでは、バット博士との関係から、同育児部の子どもを全面的に受け入れることになる。1957年(昭和32年)愛隣団育児部は廃止され、バット博士記念ホームはCCFの直営となる。

正式法人名 基督教児童福祉会

施設名 バット博士記念ホーム  ちなみに、同じくCCFの直営であった沖縄の愛隣園と広安愛児園の法人名・施設名は次のとおりである。
法人名 基督教児童福祉会愛隣園    施設名 愛隣園
法人名 基督教児童福祉会広安愛児園  施設名 広安愛児園

「ファチマノ聖母少年の町」のあゆみ

昭和28(1953)年12月
 教皇より五万ドル、横浜のカトリック信者より九千ドルの寄付を頂き、大和町南林間に八千坪の土地を購入、346坪(収容人員9名)の建物の建築を準備。名称を横浜聖母愛児園分園、「ファチマの聖母少年の町」とする。
昭和29(1954)年8月
 定礎式(荒井司教司式)、建築着工。


昭和30(1955)年2月
 子供達34名横浜聖母愛児園より少年の町に移る。
昭和30(1955)年3月
落成式(荒井司教司式)、フルステンベルグ教皇大使、内山神奈川県知事、八木大和町長、外国人、日本人約千名、子供達34名出席。
昭和30(1955)年4月
 9名の子供が市立元街小学校入学。大和町の地元住民、学校の反対により、林間小学校へ入学かなわず、元街小学校ヘスクールバスにて通学(以後 5年間続く。)


昭和35(1960)年4月
 4名の子供が本園より入園、大和市立林間小学校に入学。
 三期生から七期生まで33名が地元大和市立林間小学校への転校が許可され、横浜へのバス通学が打ち切られた。
昭和38(1963)年12月
 アフターケアー施設聖ヨゼフ寮工事着工。
昭和39(1964)年5月
聖ヨゼフ寮落成式(荒井司教司式)
昭和44(1969)年9月
 財団法人大和市公共土地公社に土地六、七九三坪、本館、職員宿舎、売却契約が成立。 9月  聖ヨゼフ寮、隣接の土地に移設工事着工。
昭和44(1969)年12月
 聖ヨゼフ寮移設工事完了、引越し。
昭和46(1971)年3月
 横浜聖母愛児園分園「ファチマの聖母少年の町」としての一切の事務終了。以後は、アフターケアー施設ヨゼフ寮として存続。

地域小規模児童養護施設 本郷ホーム沿革

 平成12年(2000)年 社会福祉法人 聖母会より、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ、児童養護施設 聖母愛児園の土地及び運営を移管したいとの申し出があり、その準備のため、キリスト教児童福祉会理事長が、理事長を降板し、聖母愛児園施設長に平成13(2001)年4月1日就任するとの取り決めがなされた。

平成13(2001)年1月15日 借家の賃貸開始
平成13(2001)年4月1日 本郷ホーム開始
平成13(2001)年度児童養護施設分園型自活訓練事業実施申請書 平成13年4月3日付
平成13(2001)年4月1日 児童養護施設分園型自活訓練事業の実施施設の指定 平成13年6月8日付
平成14(2002)年度地域小規模児童養護施設指定申請書 平成14年4月1日付
平成14(2002)年10月1日 地域小規模児童養護施設の指定 平成14年9月19日付
平成14(2002)年度地域小規模児童養護施設に係る保護単価 平成14年4月分から適用
平成17(2005)年10月1日 社会福祉法人 聖母会から社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ移管
平成25(2013)年10月2日 別借家 借家建替のため
平成26(2014)年7月1日 元の借家へ戻る

 カトリック系の聖母会から、プロテスタント(ルーテル)系のキリスト教児童福祉会へ財産移管するという歴史上稀な話しが進むことにより、人事異動が生じ、理事長が降板し施設長就任とともに、地域小規模児童養護施設に従事中の職員を人事異動することになり、当時の聖母愛児園施設長が、その受入のため、地域小規模児童養護施設より申請が通りやすい児童養護施設分園型自活訓練事業の申請を進めた。同時に賃貸住宅の準備も進めた。
 平成13年4月に新施設長就任とともに児童養護施設分園型自活訓練事業として本郷ホームを開設した。4月時点では、まだ、指定は受けていない状況であったが、6月時点で正式に指定を受ける。
 児童養護施設分園型自活訓練事業は、地域小規模児童養護施設に向けての前段階であり、翌年の平成14年に地域小規模児童養護施設の申請を行う。指定を受けたのは、同年の10月からではあるが、措置費等の補助金は、同年4月に遡ってからの支給となった。
 平成17年10月に法人移管が完了した。
 賃貸住宅による地域小規模児童養護施設の運営であるが、住宅の老朽化により、耐震強度の面で子どもたちの安全を守れていない現状があり、その旨、大家さんに相談したところ、建替の話しが持ち上がった。設計の段階から関わらせていただき、工事中は、別の賃貸住宅と契約を結び仮生活とした。約9ヶ月後、竣工となり、建て替え後の賃貸住宅を利用、現在に至る。

法人設立の理念の継承

 福祉現場を支えているのは「人」であり、その「人」を育んでいくのは「組織」となり、その組織の根本が社会福祉法人の「理念」と言える。
 「人」「組織」「理念」が点となり、点と点が繋がり線となる。その線が利用者へと繋がり、初めて適切な支援・サービスへと展開していくのである。
 しかし、点と点の間の線が切断されていたら…。それは、職員チームワークの崩壊へと繋がっていく危険性を秘めている。線が太ければ安定した柱となるが、線が細かったり切断されていたら、築き上げてきたものが崩壊していくのである。
 築き上げてきたものとは何であろう。それは、歴史であり理念の継承であり蓄積された技術のノウハウであり社会福祉事業への志であろう。
 「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」
 (コリント人への第一の手紙13章13節)  
 どんなに社会が変化しても時代が移ろおうと絶対的に変化しないのが理念であろう。
 法人の歴史を踏襲し、現代に応じた宗教との関係を模索していく。職員及び子ども達の意思を尊重し、信仰、宗教行事参加、宗教に関わる活動について強要を決して行わない。但し、現代社会を生き抜いていくためには、精神面、心理面での成長だけではなく、魂の質の成長も求められる。そこに、理念が必要なのである。
 理念を継承したとして、その結果が有益でなければ適切な利用者支援へと繋がっていかないのである。では、有益な結果とは如何なる事であろう。それは、職員一人一人の信念との同調である。その時、初めて理念の継承が大いなるパワーへと変換していき堅牢な柱が構築されるのである。この様な現象を表現しているのが「一枚岩」であろう。
 その為には、まず、施設長を始めリーダーとなる職責の職員が、信念(心)を込めて理念を伝えることが重要となる。信念のない言葉は、相手に伝わらないばかりか、不信を招く恐れもある。しかし、信念によって構築された言葉は、理解や納得を引き起こし、それが、スムーズな違和感のない利用者支援へと繋がっていくのである。
 例えば会議に於いてディスカッションが成されているだろうか、司会者と報告者の発言で終始しているようでは「一枚岩」とは言えない。職員一人ひとりが利用者のために自信と責任を持って発言できる雰囲気が会議室を充たした時、信念の同調(共通理解)を体感し、より高度な利用者支援、業務遂行へと発展していくのである。
 福祉も当法人も、全ての根本は「愛」である。従って業務全般の方向性の終着点も「愛」に尽きるのである。この「愛」は古今東西、共通した真理であり、私たちは、自信と責任を持って、法人理念を継承していくことが出来るのである。
 最後に、聖書にこう記されている「愛はいつまでも絶えることがない」(コリント人への第一の手紙13章8節)