聖母愛児園と混血児童(横浜の歴史)

 2019年には、根岸外国人墓地に関わる動きがあり、GIベビーの亡骸の行方を調査する中で、聖母愛児園現存の資料が関わってきました。当時は、エリザベスサンダースホームもGIベビーを受け入れていますが、現在、残されている資料は、火災による焼失もあり少なく、あっても文字の判別が困難で、資料としての価値がないものが多く、それ故に聖母愛児園に現存している資料は歴史的にも貴重な存在となっています。
 2019年1月25日(金)に放映された「再会~生き別れた家族に逢いたい~ – フジテレビ」、マーティーさんが横浜にある児童養護施設「聖母愛児園」を訪れるシーンが放送されました。戦後の混乱期、街の路上に置き去りにされ親がどこの誰か分からないまま保護された子どももいましたが、マーティーさんの入所記録には1947年9月8日に連れてこられた事や母の名前が記録されていたこと。捨てられたと思っていたが直接、母の手で児童養護施設に預けられていた事実を知ることができた。との内容でした。
 現存している資料が、このような場面で今でも役に立っていることが分かります。
 鳥取大学のゼミで、エリザベスサンダースホームを研究する中、混血児童に行き当たり、そこで聖母愛児園の存在がクローズアップされ、ゼミの学生たちが、資料閲覧に来ました。
 山崎洋子著の「女たちのアンダーグランド」で根岸外国人墓地のことに興味を持ったジャーナリストが、調査に来ました。
 当時の聖母愛児園が受け入れていた混血児童の数人が、北海道の児童養護施設天使の園で迎え入れられていますが、その天使の園の職員が、施設見学に来ました。
 そして、NHK YのY記者が根岸外国人墓地について取材に来られ、何とNHKが2019年12月13日(金) 「戦争の“負の歴史” 後世にどう残す けさのクローズアップ NHKニュース おはよう日本」が放映されました。ここでは、戦後、たくさんの混血孤児達を受け入れた山手の聖母愛児園にある貴重な資料の一部についての説明がありました。

戦後と聖母愛児園

 1945(昭和20)年9月2日終戦、日本の降伏調印式による調印で完全に戦争は終結しました。
*日本では、1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言(降伏要求の最終宣言)受託を玉音放送で天皇自らが軍人に伝えた日を終戦記念日としています。
*13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。
 連合国軍占領下の日本は、第二次世界大戦における日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約締結(1952(昭和27)年4月28日)までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に置かれました。
 連合国軍占領下から解放された後も、混血児がおり昭和35年(1960)までいました。米国への養子縁組もこの年で終結しているようです。
 台帳の記録上は、確かに赤文字十字マークがありますが、聖母愛児園沿革に記載している死亡児童数には至りません。従いまして、記録されていない死亡児童がどこに葬られたかを追跡することは不可能です。
 状況的には、根岸外国人墓地は、山手町にある聖母愛児園から近く、当時の運営法人は、カトリック系で米国との関係も深く、養子縁組に関して米軍の協力もあったことから、死亡児童を米軍が引き取ったであろうとの見方も出来ます。
 GHQの情報統制が関わっていた時代背景もあり、殆どの記録が歴史上から抹消されている可能性も否定できないため、追跡・確認する手段はないのでしょう。

聖母愛児園とファチマ聖母少年の町

 横浜という特殊な土地柄の為、殊更此の風にあてられて参りました者の一人は、私共「聖母愛児園」でございます。
 終戦の翌年、昭和二十一年の四月の或朝、中区山手町八二番地の横浜一般病院の玄関先へ置棄てられて居りました子供が最初の者でございます。
 (横浜一般病院は、昭和十年より二十六年まで現在の社会福祉法人聖母会の前身なる社団法人大和奉仕会の経営に依る。)苦しい生活の中に又は、すさんだ心の中に求められて参りました楽しみとしての進駐軍との交際はこのやうに次々と罪なき子の誕生をみ、世間を恥じて親子の名乗りさえあげかねる彼等の母親は、せめて神の慈悲の御手に我が子を託せんものと、修道院の玄関先へ秘かにおいていったのでございませう。
 私共では早速に一般病院の一角を利用して乳児院を開設し、之等薄幸の子等に愛の手を差しのべたのでございます。
 然し子供達は日毎に増加をみる一方で、一般病院の一隅のみでは到底収容しかねて参りましたので、昭和二十一年九月神奈川県当局の絶大なる御支持の下に山手町六八番地に乳児院を独立新設し「聖母愛児園」と命名致しました。
 其の後子供達は天守様の恩寵の下、修道女の手によって健かに成育し、昭和二十五年には満四才に達する者も出て参りました。
 ここに於いて乳児院で引きつづき収容致すことも出来ませんので乳児院の隣接地へ養護施設を新設し乳児院の年齢超過児を収容保護致して参りました。昭和二十八年子供達が学齢に達しますと共に、新たな問題がおきて参ったのでございます。
 幸ひにも小学校の先生方のご理解ある御協力により就学致すことが出来ました。然し女児はともかく男児の教育が切実な問題として考慮されて参りました。
 私共愛児園と致しましては早速に教区長荒井司教様の下に伺ひこのことにつき御相談申し上げたのでございます。荒井司教様もすて難い問題として御取上げ下さいまして日本の各司教様教区長様方を通じて教会の協力を求められます一方米駐留軍の方々によびかけられ援助を求められたのでございます。とかくする中、司教様よりこの事について御聞き遊されまして教皇様は五萬弗の資金を混血児救済事業のため御寄付下さいました。其の後間もなく横浜のカトリックの方々より九千弗の御寄付をいただきこの五萬九千弗をもって南林間に八千坪の土地を購入し三四六坪(収容四十五名)の建物の建築に取りかかる準備をなしかくて問題解決の第一歩をふみ出したのでございます。昭和二十九年八月定礎式を行ひ同年十月二十三日棟上式を挙行、こえて三十年三月十二日落成式をみるに至りました。
 今後女児の混血児は引続き聖母愛児園で保護されて参りますが男児は高座郡大和町下鶴間の愛児園の拡張施設で保護されることになり此の子供達の教育にはカナダより来日致して居ります「教育修士会」の方々があたられ、なほ東京の「おつげのフランシスコ修道会」がこれに協力されることになり「ファチマの聖母少年の町」とよばれることになりました。
 此移転につき度々問題になりましたのは子供達の学校のことでございます。折角なれました所を日浅くして変わりますことは種々の面で影響がありますことを考慮されましたので大和町の小学校の御理解を得まして現在通学致して居ります元街小学校へ引きつづき通うことに決定致しました。
 今日まで私共で扱いました混血児の数は男児二〇〇名女児一九〇総計三九〇名でその中昭和二十一年より二十九年三月までに養子として家庭へもらわれましたのが男児四七名女児四七名合計九四名、二十九年より現在までの間に養子となりましたものが男児一五名女児二十四名合計三十九名で私共も国の保護を頼ると共に極力理解ある家庭への養子を努力致して居ります。
 内外多数の方々の御協力により少年の町の第一歩はふみ出されました。然し数多くの問題はなほ将来に残されているのでございます。物質的に精神的に皆様の御協力を得てこそよき国民の一人として生ひたって行くのではございませんでせうか。ここに今日までの数々の御協力を感謝致しますと共にあわせて今後の御支援を心から願ひ天守様の豊かな祝福を皆様の上に祈りつつ、少年の町設立に至りました経過を御報告申し上げます。

ファチマの聖母、少年の町(通称:ボーイズタウン)

(聖母愛児園分園拡張施設)
昭和30年3月時の文章

 古語にも十年一昔と言われて居りますが、大東亜戦争の終末から早くも十年の月日が流れ、戦争の思ひ出を忘れかけて参りました中に、終戦以来数々の問題を残して居ります混血児の事は、彼らの成育と共に社会問題として私共の中に投げかけられて来て居ります。
 横浜という特殊な土地柄の為、殊更此の風にあてられて参りました者の一人は、私共「聖母愛児園」でございます。終戦の翌年、昭和二十一年の四月の或朝、中区山手町八二番地の横浜一般病院の玄関先へ置棄てられて居りました子供が最初の者でございます。(横浜一般病院は、昭和十年より二十六年まで現在の社会福祉法人聖母会の前身なる社団法人大和奉仕会の経営に依る。)苦しい生活の中に又は、すさんだ心の中に求められて参りました楽しみとしての進駐軍との交際はこのやうに次々と罪なき子の誕生をみ、世間を恥じて親子の名乗りさえあげかねる彼等の母親は、せめて神の慈悲の御手に我が子を託せんものと、修道院の玄関先へ秘かにおいていったのでございませう。私共では早速に一般病院の一角を利用して乳児院を開設し、之等薄幸の子等に愛の手を差しのべたのでございます。然し子供達は日毎に増加をみる一方で、一般病院の一隅のみでは到底収容しかねて参りましたので、昭和二十一年九月神奈川県当局の絶大なる御支持の下に山手町六八番地に乳児院を独立新設し「聖母愛児園」と命名致しました。其の後子供達は天守様の恩寵の下、修道女の手によって健かに成育し、昭和二十五年には満四才に達する者も出て参りました。ここに於いて乳児院で引きつづき収容致すことも出来ませんので乳児院の隣接地へ養護施設を新設し乳児院の年齢超過児を収容保護致して参りました。昭和二十八年子供達が学齢に達しますと共に、新たな問題がおきて参ったのでございます。幸ひにも小学校の先生方のご理解ある御協力により就学致すことが出来ました。然し女児はともかく男児の教育が切実な問題として考慮されて参りました。私共愛児園と致しましては早速に教区長荒井司教様の下に伺ひこのことにつき御相談申し上げたのでございます。荒井司教様もすて難い問題として御取上げ下さいまして日本の各司教様教区長様方を通じて教会の協力を求められます一方米駐留軍の方々によびかけられ援助を求められたのでございます。とかくする中、司教様よりこの事について御聞き遊されまして教皇様は五萬弗の資金を混血児救済事業のため御寄付下さいました。其の後間もなく横浜のカトリックの方々より九千弗の御寄付をいただきこの五萬九千弗をもって南林間に八千坪の土地を購入し三四六坪(収容四十五名)の建物の建築に取りかかる準備をなしかくて問題解決の第一歩をふみ出したのでございます。昭和二十九年八月定礎式を行ひ同年十月二十三日棟上式を挙行、こえて三十年三月十二日落成式をみるに至りました。
 今後女児の混血児は引続き聖母愛児園で保護されて参りますが男児は大和町の愛児園の拡張施設で保護されることになり此の子供達の教育にはカナダより来日致して居ります「教育修士会」の方々があたられ、なほ東京の「おつげのフランシスコ修道会」がこれに協力されることになり「ファチマの聖母少年の町」とよばれることになりました。此移転につき度々問題になりましたのは子供達の学校のことでございます。折角なれました所を日浅くして変わりますことは種々の面で影響がありますことを考慮されましたので大和町の小学校の御理解を得まして現在通学致して居ります元街小学校へ引きつづき通うことに決定致しました。
 今日まで私共で扱いました混血児の数は男児二〇〇名女児一九〇総計三九〇名でその中昭和二十一年より二十九年三月までに養子として家庭へもらわれましたのが男児四七名女児四七名合計九四名、二十九年より現在までの間に養子となりましたものが男児一五名女児二十四名合計三十九名で私共も国の保護を頼ると共に極力理解ある家庭への養子を努力致して居ります。
 内外多数の方々の御協力により少年の町の第一歩はふみ出されました。然し数多くの問題はなほ将来に残されているのでございます。物質的に精神的に皆様の御協力を得てこそよき国民の一人として生ひたって行くのではございませんでせうか。ここに今日までの数々の御協力を感謝致しますと共にあわせて今後の御支援を心から願ひ天守様の豊かな祝福を皆様の上に祈りつつ、少年の町設立に至りました経過を御報告申し上げます。

「ファチマの聖母少年の町」のあゆみ

ファチマの聖母少年の町 創立30周年記念アルバムより

少年の町の混血児

 この施設が出来たのは、横浜の当時の新井司教さんが横浜の「聖母愛児園」の依頼で、根岸台にあった修道会に依頼してできたものだった。依頼されたのは学齢期、学校に通わなければならなくなった混血男児のための施設ということだった。この依頼は1953年昭和28年、当時子供たちは7歳だから、生まれたのは昭和21年、妊娠したのが昭和20年の終戦の年という事になる。第1回目に入ってきたのが34名、全員混血児だった。(別情報では、黒人系21人、白人系5人、韓国人系1人、日本人の孤児12人であった)。
 ところが、学童期の子供が入ってきたというのに、大和市の地元の住民や学校の反対で、入学が出来ず、毎日大和から横浜の小学校へスクールバスで通うということが5年間も続いた。教育委員会も反対した。何故かというと、混血児だったからだ。「冗談じゃない、そんなものを建てたら黒人の町になるぞ」と言われ、小学校のPTAの90%が反対の署名をしたほどであった。
 はじめは、その施設の建築自体が反対されていたが、学校に通わないということで建物だけの建築が許された。そして、子供たちは、横田基地のクリスマス会に招待されたり(私も招待されて子供たちを連れて行った経験がある)、厚木基地に食事や映画の招待を受けるという生活をした。
 「思い出:笠原のぶ子(ボランティア)クリスマスや御復活祭になりますと、たくさんの兵隊さんが来て子供たちをお食事に招待してくれます。・・・・外人の家族が来た時レオが言いました『お姉ちゃん、僕たちにもお父さんやお母さんがいたんだよね』・・・戦争の結果とでも言いましょうか、何の罪もない子供たちが生まれながらにして不幸を背負わなければならぬ運命のいたずら、戦争のない世界の平和を祈らずにはいられません」この彼女の文章だけが真実を述べていると思う。
 「白人や、黒人との混血児の収容施設が大和町の林の中に建てられる。・・・・それは昭和21年の秋、横浜の女子修道院の玄関に混血の赤ちゃんが捨てられていたことがきっかけであった。・・・・終戦後まもなく「戦争の落とし児」と呼ばれる子供が年々増加していくために困っていた、・・・・創立当時30数名が入所したが、 すでにその時112名はアメリカ人の家庭に養子に行き、13名は日本人に引き取られていた。・・・・・施設に入った子供たちの衣食住の世話は、「お告げの姉妹会修道女」が担当している」。

 アメリカ人兵士と日本人女性との間に生まれ、学齢期に達した混血の孤児(男児)を収容するため、横浜市中区山手町にあった聖母愛児園の分園として昭和30(1955)年、大和市の約8千坪(2万6,400㎡)の敷地に建てられました。混血児に対する偏見が強かった時代、最盛期には60人ほどの子供たちがここで集団生活を送り、巣立っていきました。当初、子供たちはバスで山手町の元街小学校へ通学していましたが、交通量の増加などでバス通学が困難になったため、交渉の末、昭和35(1960)年から林間小学校へ通学しました。その後、在園者・入園者の減少や社会状況の変化などによりその役割を終え、昭和46(1971)年3月に少年の町としての一切の業務を終了しました。土地(2万2,400㎡)と建物は市に売却され、社会福祉施設「松風園」として開園しました。

 

連合国軍占領下の日本 – Wikipediaより抜粋

占領軍等の犯罪

 連合軍の統治下、外地から引き揚げようとしていた民間人が、満州国や日本の占領地域に侵略してきたソ連兵や朝鮮人や中国人から、虐殺や強姦、強制拉致、監禁、強奪などの激しい被害を受け続けていた。また日本から分断されていた沖縄県だけでなく、日本本土内においてもアメリカ軍兵士による夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。占領初期の1か月、神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生し、神奈川県では女学校を閉鎖するなどの処置をとって強姦の防御に努めた。1945年(昭和20年)9月2日から1952年(昭和27年)4月28日にわたる約7年間の占領期間中、本土だけでも少なくとも2,536件の占領軍による殺人と3万件以上の強姦事件が発生したとされている。
 イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦の占領地域でも、「狩り」と称して日本女性がジープ等で拉致され、女性が助けを求める声がキャンプ周辺から絶える日がなかったと記録されている。それだけでなく、その被害者の死体も見つかっておらず、返還もなされていない。
 ソ連の占領下にあった北方領土内では、1947年(昭和22年)まで日本人が本土に移住することが許されず、約1万7千人の日本人が無防備のまま、ソ連兵によって殺害され、強姦や強奪の被害にさらされていた。多くの日本兵は、ポツダム宣言に反して帰還を許されず、現地でリンチにあったり虐殺され、シベリア、朝鮮半島、中国などに抑留され、強制労働を課せられた結果衰弱死する者が続出した。なお、シベリア抑留で抑留された旧日本軍兵士が強制労働にて建立された建物があり、今でも壊れずに残っておりロシア人がそれを利用している。

特殊慰安施設

 アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で1336件の強姦事件が発生した。
 沖縄戦でも目を覆うような強姦事件が繰り返されており、日本政府はそれらの被害報告を受け、アメリカ兵の強姦対策として銀座に慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。
 同年9月28日、今度は連合国軍医総監から東京都衛生局に対し、慰安施設の増設を指示された。
 9月の同じ時期、千葉県と神奈川県でもアメリカ軍司令部から慰安所を設けるように要請を受けた。
 東京都や神奈川県の慰安所では、開業前日にアメリカ兵が大挙して押し寄せ、無差別に強姦を行った。
 神奈川県の慰安所では、抵抗した慰安婦をアメリカ兵が絞殺する事件も起こっている。
 また中四国地方においても、イギリス連邦軍兵士向けの慰安施設を設けたほか、性病が蔓延したためイギリス軍による性病対策の講義が基地の中で開かれている。
 慰安所設置によって、確かに強姦事件は減少したと考えられている。
 実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。
 1945年(昭和20年)の12月25日、東京都の渉外部長(占領軍司令部の命令にサービスを提供する部署)だった磯村英一は、SCAPの将校から呼び出され、当時焦土と化していた「ヨシワラ」に宿舎を造営して復活させ、占領軍の兵隊のための「女性」を集めるよう命令された。東京都はすでに女性や子供をできるだけ田舎に避難させる政策をとっていたが、占領軍の命令には抗う術もなく、磯村自ら焼け跡地区で困窮生活をしていた一般女性に、食糧を支給すると約束して集める苦渋の決断を下した。
 都内の焼け残った花柳界も東京をはじめとする関東地域の占領業務に当たっていたアメリカ軍専用に接収された。
 レイプ記録に日英米間の差異イギリス連邦占領軍の公式報告では、軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し有罪判決を受けたとされる。
 しかしながら、1946年2月から4月にかけてのイギリス連邦占領軍による公式占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない。
 また、1945年8月以降のイギリス軍将兵の重大な犯罪の公式統計も存在しない。アメリカ軍のロバート・アイケルバーガー将軍は、特殊慰安施設協会に乗り込んだ数百人のアメリカ軍兵士が女性たちをレイプしたことをマッカーサー元帥と話し合ったことや、アメリカ軍兵士による日本女性への暴行を防ぐために日本人が設立した自警団を武装した戦闘車両で鎮圧し、自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁したことなどを回顧録に残しているが、占領初期のGHQによる1945年9月の「月例報告」では、「日本人はアメリカ兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。
 また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「アメリカ兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーも、アメリカ軍自身が日本人慰安婦および施設を要請したことについては言及していない。
 他方、特別高等警察(1945年(昭和20年)10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9、ワイセツ事件6、警官に対する事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。調達庁の資料では、7年の占領期間中にアメリカ軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人とある。
 警察資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。なおイギリス軍兵士やそれ以外の将兵による事件記録は残されていない。緘口令1945年(昭和20年)9月19日、GHQからプレスコードが発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。
 連合国軍兵士の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。私生児アメリカ軍兵士による強姦などにより「GIベビー」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。混血児の多くは父親が誰か分からず、むろん母親からも歓迎されず、母親の親族や地域社会からも排斥されたため、線路脇などに遺棄されたり、嬰児の遺体を電車の網棚に遺棄するなどされていた。
 1948年(昭和23年)には混血児に対する民間の救済施設「エリザベス・サンダースホーム」が設立された。しかし同様の施設を日本政府やアメリカ軍が作ることはなかった。同1948年(昭和23年)に優生保護法が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。1953年(昭和28年)に厚生省が行った調査によると、国内で4972人のGIベビーが確認されている。

占領期日本における強姦 – Wikipediaより抜粋

占領の恐怖と特殊慰安施設協会

 日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
 米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
 これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した。

米軍による強姦

 ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった。
 公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている。
 テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。

占領軍上陸直後の事件件数

 マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった。
 上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。

日本の被害報道への検閲

 ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた。
 高前英二とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している。